阪急冬の時代を米田哲也と共に支えた
通算254勝255敗の大投手
1954年にデビューし20勝以上を4回を記録
先発が主だったが、中継ぎにまわることも少なくなかった
防御率は安定していたが勝ち星を伸ばせなかったのはチームの貧打が一番の要因なのは明らかだが
四球が多く攻撃のリズムをくずす
投手として性格が優しすぎた
など色々な要因が考えられる
60年代半ばにさしかかり低迷するもパームとナックルを覚え復活
だが、結局阪急黄金期の頃には衰えが顕著になり1973年に引退
一度も日本一を経験することなくユニフォームを脱いだ
その後は解説者や指導者を務める
コーチとして評判は良く、慕う選手は多かった
2006年死去 享年71
2007年野球殿堂入り
1957年 24勝16敗防御率1.92
[査定について]
1 コントロールと四球
若い頃はとにかくノーコン
最多与四球3回 晩年には改善された
2 一発
球場の狭さとあいまって最多被本塁打2回
3 負け運
254勝255敗 名球会入りの選手で唯一の負け越し
4リリース
梶本の代名詞 ゆったりしたフォームから快速球を投げ込んだり変化球を投げ込んだ
そのフォームはどれも同じように見えたとのこと
5ケガしにくさA
大きな怪我をしたことがないまま20年投げ続けた
6 奪三振
最多奪三振2回