プロ野球史上
最強クラスの駄目助っ人
2004年オフ。この年中継ぎ陣が崩壊した巨人が守護神候補としてオファー。破格の待遇で巨人入団。ちなみに、何故巨人がミセリに決めたかと言うとすでに入団していたこれまた駄目助っ人キャプラーの推薦があったからである。(こんなんに流される巨人のフロントってほんまにヤバイよ)
ちなみに、二軍降格は無しとかいう意味不明な契約だった
まあ…MLB時代はメジャー屈指の中継ぎ右腕だったのでしょーがない部分はある
キャンプ、オープン戦と調子がまったく上がらず(オープン戦の成績は8試合に登板して0勝1敗防御率5.63)、多くのファンが「これ大丈夫なのか?」と嫌な予感を持つ事に。そしてその予感は現実になる
先に言うとミセリは4月19日に球団史上最速解雇となった。何故そうなったかの過程はwikiからそのまま引用させてもらう
広島との開幕戦、1点リードの9回表に初登板、ラロッカにバックスクリーンへの同点本塁打を、続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田に送られた代走の福地寿樹に初球盗塁され、緒方孝市に勝ち越し本塁打を打たれ降板、3失点で敗戦投手となる[4]。4月5日の横浜戦、同点の12回裏で登板し、先頭の金城龍彦に二塁打を打たれ、佐伯貴弘の敬遠後に代打ケビン・ウィットは三振するが、続く多村仁志にフェンス直撃のサヨナラ安打を打たれ、敗戦投手となる。二軍再調整を促されたが、本人の同意なしに二軍に落とせないという契約を理由にミセリが拒否、一軍に帯同し当面は中継ぎで調整することが決まる。
4月6日の横浜戦で延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整い、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった[7]。4月7日の横浜戦で3-8と5点ビハインドの6回裏に中継ぎとして登板、先頭打者の種田仁に四球、種田に盗塁され、次打者の金城は一塁ゴロに打ち取ったが、佐伯に適時打、続く多村には2点本塁打を打たれ1回3失点、試合後には「こんなリトルリーグみたいに狭い球場でやっているからだ」と発言した。4月10日の中日戦で9回表、10点ビハインド(0-10)敗戦処理で登板し、2安打を打たれるが4度目の登板で初の無失点。これが日本最後の登板となる。
敗戦処理での登板にミセリは不満を顕わにし、さらには右肩痛を訴え始めた。首脳陣は再度二軍降格を打診するが、あくまで二軍落ちを拒否する姿勢を示した。
このことで4月17日にミセリ本人を交え、山本攻児(当時ヘッドコーチ)、阿波野秀幸(当時投手コーチ)との3人で40分話し合った末に、開幕から1ヶ月も経たない4月19日に球団史上最速で解雇した。シーズン途中での解雇であったため、年俸は契約期間の内2~4月の3か月分(5,250万円)を支払うことで合意した。
以上がミセリの活躍。いや伝説だ。
この後、笑顔で浅草観光していた写真は、とても有名
では最後にカメハ師匠のお言葉をお借りしましょう
13年以上経っても色褪せないあの炎上ぶりは、我々の心を揺さぶり続ける。
そうミセリはいつまでも我々の心に生きているのだ!
数ヶ月しか彼は日本にいなかった。だが、彼はいまでも野球ファンの心に生きていて、永遠に語り継がれる。永遠に笑わすことができる生きた伝説なのだ!!
なわけねーだろふざけんな(by G党筆者)
4試合登板2敗防御率23.6