鄭 珉哲(チョン・ミンチョル、韓国語:정민철、1972年3月28日 - )
2000年成績 2勝 防御率4.82
韓国屈指の好投手
KBOでは1年目から二桁勝利。以降も日本移籍までの8年間、二桁勝利を挙げ続けた韓国球史に名を残す投手。
99年オフにカブスとの争奪戦を制したのが我らが大正義巨人軍。大きな期待を背に受け鳴り物入りで入団した。ただ、ガルベスと鄭以上の年俸で獲得したメイが既にいたのだが。
結局開幕は2軍スタートも流石に格の違いを見せつける。ガルベスの不振で5月にようやくデビューすると初登板初先発で初勝利を記録。その後は再び2軍調整もメイの「To Him」騒動もあって再昇格を果たすと見事完封勝利を挙げた。が、以降は続けて早期KOを喫してしまい1年目は結局4試合の登板に終わった。
勝負の2年目となった01年には何故か鄭珉台が入団。趙成珉を含めた韓国人投手3人で1軍の一枠を狙う不毛な競争が勃発。前年を上回る8試合に登板も安定感に欠きこの年限りで退団。KBOに復帰し最終的に161勝を挙げている。
何故成功できなかったのか?
日本で成功できなかったのは巨人の行き当たりばったりな編成と起用に問題があったからとの見方が当時から根強い。
しかし獲得の段階で鄭珉哲に球速の衰えがある事を巨人は把握済みで、最初からそこまで期待はしていなかったとの指摘もある。つまり合理的判断に基づいた起用だった可能性も否定はできないのだ。
実際、メディアを通じた前評判では最速148kmと謳われていたが1年目の最速は144kmに留まっている。(ただし2軍の数字。僕が調べた限り1軍では141km)全盛期は152kmだった事を考えると長年の勤続疲労で球速が低下してしまったのだろう。
また、実績で劣り問題児のイメージが強いメイをあの自称紳士球団巨人が外国人補強の目玉としていたのは年俸や起用法を見る限り明らかである。
まぁ、結局のところ継続して活躍出来なかった鄭珉哲に1番の原因があったと僕は結論づけます。それがプロだから...
査定について
・球種
→ナックルカーブ、スローカーブ、逃げるチェンジアップ、スライダー、SFFと多彩
→カーブが決め球。本人が特に自信を持っていたのはナックルカーブだが、スローカーブも代名詞の1つ
→悩んだが鄭珉台の超スローカーブとの差別化でナックルカーブを選択
→基本的には速球とカーブorチェンジアップで緩急を付け時折SFFを交ぜる形に
・対左F
→対右.259(27-7)1本 対左.292(48-14)3本
→これだけならEだけど翌年がボッコボコ。数字は忘れたけど
・ノビ 球持ち○
→球離れの遅さが特に評価されていた投手
→球持ちの良さもあり、全盛期の球威は林昌勇や呉昇桓より上と評する選手も。ただ流石に巨人時代はアレなので
・リリース○
→テイクバックは小さかったが...
→フォームで球種がバレバレになる弱点がすぐに露呈したのよね...
・緩急○
→あっていいのだが、流石に特能が多すぎちゃうかなと
・フライボール
→ストライクゾーンでの勝負が信条
→それ故に球威が低下し始めた98年頃から被弾が増加している
・調子極端
→安定感が売りだった投手に付けたくない
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